2007年8月28日火曜日

奇妙に出会える御徒町

御徒町は上野と秋葉原に挟まれていますが、見所がたくさんある駅です。上野方向の北口からは、吉池、アメ横入り口が見えますし、昭和通り方向に歩けば、ディスカウントストアの多慶屋、寄席の鈴本演芸場、松坂屋上野店、受験の神様・湯島天満宮、不忍池音楽堂、本当の金持ちの邸宅跡旧岩崎庭園に行くことができます。

秋葉原方向の南口からは吉池お魚館という吉池の別館に出かけるのに便利です。なんだ魚屋かとあなどってはいけません。吉池お魚館では、あなたが見たことがない食材に必ず出会えると保証します。夏場には殻つきのウニやフジツボなども売るときがあります。貴金属・宝石問屋街のジュエリータウンおかちまちも南口が便利。

アメ横は奇妙な街です。第二次大戦後、旧満州からの引揚者が米軍の払い下げ物資を売りたたく露店を営んだからアメリカ横町がこの名称の由来とする説がありますが、払い下げ物資など売る店は既に消えています。築地場外のような雰囲気のなかに化粧品、輸入品、菓子、ゴルフ用品、ブランド品を売る店々が並んでいます。

鈴本演芸場は1857年に講談専門の「軍談席本牧亭」が端緒。明治時代に席亭に苗字が許され、鈴木姓と本牧から「鈴本演芸場」と改名しました。昼席と夜席があり、エスカレーターで上がった館内は小さな映画館の体を想像しましょう。昼席に酔っ払った団体が入場していると、芸人と酔っ払いの言い合いで笑えるときもあります。

2007年8月26日日曜日

今昔の記憶が重なる上野駅

上野駅は何度も利用しています。一番最初の記憶は東北本線は仙台で下車、仙石線に乗り換え石巻下車というコースです。石巻から塩竃にある父の実家に連れて行かれたのですが、その間の記憶は消えています。小学校入学前だと思います。天井から吊るされた蝿取り紙を珍しそうに見ていました。北上川が大河に見えました。

上野動物園に写生遠足に出かけたのは小学校3年生のとき。サル山をじーっと見ていたことと、キリンの大きさに驚嘆した記憶が残っています。現在のような商売上手な動物園ではなく、珍しいものを見るために出かける場所でした。公園口から動物園まで歩く間にアイスキャンディなどを売る店があり、ヨダレを垂らしていました。

圧倒的に公園口を使う回数が多いのは博物館・美術館に行くことが好きだったからです。とくに科学博物館は社会科見学で出かけたときからハマりまして、現在でも出かけています。上野駅は駅ナカ開発の先頭を走っていると思います。博物館帰りにそちらも立ち寄りますが、珍しい地方物産などを見ると、つい買いたくなります。

京成スカイライナーで成田空港に向かうなら、不忍口改札を使います。グアムに家族旅行に行ったとき、一度利用しました。西郷隆盛の銅像の地下を走っていることを、おかしく感じました。アメ横は隣駅の御徒町と上野を繋げた商店街ですが、やはり不忍口が便利です。昔はあちこちに路上生活者が寝ていた、奇妙な駅でした。

鶯谷を起点に下町散歩をしてめぐりん

鶯谷は根岸と上野桜木に挟まれた駅です。上野桜木には上野恩賜公園があり、寛永寺・東京国立博物館などがあります。いかにも歴史・文化に満ちた風情をと思って根岸側に出たら、さあ大変です。真っ先に目に飛び込んでくるのはその手のホテルです。夜などはプロが立つ街です。

どうしてプロが立つ街だと知っているかといえば、駅近くの出版社に勤務する方がガイドしてくれたからです。路地裏の薄暗がりに立つ方々は日本人、外国人の割合が半々だとか。鍵屋酒場という居酒屋で美味しい鳥皮鍋とと味噌おでんをご馳走になった帰りの寒い日のことでした。

駅から浅草方面に散歩したときに見つけたのが「千束いせや」。浅草・吉原大門近くに「土手の伊勢屋」という行列店があります。名前からして関連があるのかと思い、海老穴子天丼を食べ食べ、あそこと関係があるかと問えば、姉妹店とのこと。金美館通り商店街入口にあります。

ちなみに南口駅前ロータリーは一見の価値があります。吉原ソープランドの送迎車が頻繁に出入りするのです。電話ボックス前がお約束の場所のようです。鶯谷駅北と鶯谷駅南から台東区が運営するコミュニティバス「めぐりん」に乗車できます。運賃100円で下町散歩に最適です。

2007年8月24日金曜日

一番好きな駅名「日暮里」

山手線の駅名を好きな順番に並べよと質問されたら、小生の真っ先に「日暮里」を挙げます。漢字の配列と「にっぽり」という読み方が好きなんですね。風情は時代の荒波に凡庸となることは古来からに決まりごとです。例によって駅ナカ開発で、どこにでも街に変化する模様です。

日暮里駅の東西には「一変」という漢字を贈呈したいと思います。西側は谷中霊園一帯と表現して誤解がないと思います。巨大な霊園には様々なヒトの墓標がありますが、実際に確認してきたのは朝倉文夫、天津乙女、色川武大、上田敏、円地文子、鏑木清隆、川上音二郎などです。

ちなみに同霊園には非公開の徳川将軍(8代吉宗以降)の墓もあります。非公開に反して開けっぴろげな雰囲気に満ちているのが、駅の東側です。駅前再開発の模様を、バスターミナルに立つ太田道灌像はどのように感じているのでしょうか。駄菓子屋街・繊維問屋街もこちらです。

日暮里駅と見沼代親水公園駅の9.8kmを結ぶ新交通システム「舎人ライナー」の運行予定は本年末。日暮里駅は東側は、下町の空気を漂わせていたのですがが、駅前からガンガン変貌を、あるいは凡庸な街に変貌しようとしています。賢人たちが眠る西口との乖離が広がり続けます。

2007年8月22日水曜日

その手の名門が結集する西日暮里

西日暮里のスナックでミワという短大生と飲んでいたことがあります。まだ独身だった頃でしたから、まあ、口説いていたわけですね。中高校一貫校の名門、開成学園(中学・高校)の生徒たちがミワに目を奪われていました。キミたちは東大に目を奪われなさいと思ったものです。

ちなみに、開成出身の年長者が話していたのですが、西日暮里駅ができるまで、同校生徒は田端駅か日暮里駅から歩いていたそうです。「あの頃は大変でした。遅刻しそうな生徒たちが、毎朝のようにマラソンの練習をしていました」とのことです。寂しい場所でもあったとのこと。

現在の西日暮里は尾久橋通り沿いに中層ビルが並んでいます。都バスで車窓から、飲食店や風俗店などが多々できていることもわかりました。駅から尾久橋通りを明治通り方向に歩くと「めん匠」というラーメン屋が見つかります。懐かしい東京ラーメンを欲するヒトに推奨します。

先日、知人とダベっていたら、西日暮里もその手のホテルが集中した場所だとか。男女が憩う施設の近くには、なぜか、美味しいものを出すところが集まります。問うたらアイリッシュパブ“オコンネル”を推奨されました。ビールがよろしいとのことですが、小生、ビールは苦手。

2007年8月21日火曜日

文士という職業人がいた田端

田端駅は北区にあります。現在駅ナカビル工事中ですが、これもJR東日本の商売上手がなせるマーケティング戦略だと思います。この駅は乗降客数で見たら山手線のなかでも少ないほうですが、山手線と京浜東北線の乗り換え客数で見たら、かなりのヒトが利用しているはずです。

子供の頃の思い出では田端は貨物列車が見られる駅でした。繁華街もない北口徒歩1分の場所にホテルメッツ田端が建ったとき、あんな場所で経営がなりたつのかいナと思いましたが、考えて見れば経営はJR貨物グループです。見るテツたちのために建てた垂涎ホテルだと思います。

菊池寛、室生犀星、芥川龍之介、サトーハチローなどの文士・芸術家達が田端に住んだので、田端を文化の街とする散歩ガイドが多数あります。北口を出るとASUKAタワーというビルが目立ちます。ビルに田端文士村記念館があります。散歩地図をもらい文士の足跡を辿ってはいかが。

田端で酒をというならリッチならばホテルメッツのレストランです。いやいや、田端のヒトが飲むような場所でというなら東田端一丁目商店会にある「初恋屋」という居酒屋に立ち寄ることを推奨します。売れない文士が飲むのにお似合いの場所ですが、安い旨い酒の肴が豊富です。

2007年8月20日月曜日

駒込でもう一串たのもか戸惑う

発車メロディーが「さくらさくら」の駅が駒込です。駅近くの染井村は江戸時代に植木市があり、ソメイヨシノ発祥地。お花見のサクラの大半を産み出した場所なのですが、山手線の各駅と比較すると地味な印象を受ける駅だと思います。ただし、自然観察が大好きというヒトなら、この駅の立地が派手さと無縁だと理解できます。

駒込は言うなれば周囲を学校と庭園などに囲まれた場所です。女子栄養大、聖学園、小石川高校などがあるなかで、自然を求めたいなら駅から徒歩5分ほどにある六義園に行くべきです。小石川後楽園と六義園は江戸の二大庭園です。六義園は柳沢吉保自ら設計、指揮した庭園で、平坦だった場所を7年かけて造ったそうです。

「回遊式築山泉水庭園」を拝見するのに7年は掛かりません。あれよと簡単に一周できます。当時の造園職人さんに敬意を払うなら、簡単に歩くことは止めましょう。六義とは中国の古い漢詩集「毛詩」の「詩の六義」に因んでいます。風・賦・比・興・雅・頌の分類法を、紀貫之が和に転用。和歌の「六体」に由来しています。

JR駒込駅東口に「東京やきとり亭」というお店があります。名前の通り焼き鳥屋さんですが、17時からの営業です。六義園帰りに立ち寄るのはいかがでしょうか?本店は銀座にありますが、店名に東京と付けながら、食材は名古屋コーチン。焼き鳥レストランですね。入店すれば、まず値段に驚きます。一串380円の焼き鳥なのです。

地蔵のためなら死もまた楽しい巣鴨

巣鴨といえば「お年寄りの原宿」と呼ばれています。原宿の「竹下通り」に匹敵するのは「巣鴨地蔵通り商店街」。都営地下鉄の巣鴨駅近くから、都電「庚申塚停留所」あたりまで全長約780メートルもある商店街です。もっとも有名な「とげぬき地蔵」のある高岩寺は巣鴨寄り。便利なほうに商店街は賑わいを見せてくれます。

何度か散歩していますが、多分、賃貸料が高いであろう巣鴨駅近くには、結構、有名店が並んでいます。お年寄りが愛する塩大福は、食べてみればわかりますが、フツーに甘い食べ物です。身体を温める効果があるとされる真っ赤な下着も、冷静に考えたら、自分ちにあるTシャツを赤く染めても効果は同じことになるでしょうね。

観光地では有名店やFC店を避け、地元に根付いた食べ物屋さんに入店します。「ときわ食堂」は人生を下手に生きてきた暗さ漂う方々が憩う大衆食堂です。とげぬき地蔵を通りこして左側を見ていれば見つかります。450円のホッケ開き定食は、奇をてらうことをしません。元気なお年寄りを羨ましく眺めている目がありました。

JR巣鴨駅近くに「成文堂 巣鴨駅前店」があります。大規模な書店じゃないですが、巣鴨顧客ニーズに応えた品揃えに感動です。「般若心経 脳ドリルえんぴつ写経」が、入り口脇の目立つ場所に並んでいました。「脳トレ」シリーズの川島隆太氏が監修した脳を鍛える本です。死ぬまで鍛錬する矛盾をヒトは容認するのですね。

2007年8月17日金曜日

連想外の場所、大塚

生まれてこの方「大塚」駅で下車のは2回だけです。原稿執筆に詰まると都バスの一日券を購入してボーっとバスに揺られる時間を過ごすことがあります。錦糸町駅から大塚駅までの都バスのなかで、どの媒体だっか忘却しましたが、原稿の断片が脳内空間をチラホラしていました。

もう一回は、知人が社長をしているゲームソフト開発会社に遊びに行ったとき。駅周辺に池袋っぽい隠微さがあったことを記憶しています。暑い季節のことで北口近くの「大塚 三浦屋」という”ひつまぶし”のお店を案内されました。蒸さずに焼いた鰻をはじめて食べた場所です。

「もう一軒、行こうよ」と、同じく北口のショットバー「三番倉庫」。煉瓦作りの入り口を見て「高そう」と思ったのですが、値段はフツーでした。大人のためのバーなのでしょう。あちこちにある居酒屋の喧騒が苦手になってきました。耳の奥に重低音が反響して煩わしいのです。

その後、ソフト会社が移転してから、大塚駅で下車する機会を失っています。駅前の猥雑さからして、面白い場所があるのだろうと思います。どなたか「ここは、行くべし」という場所をご案内していただけると助かります。そうそう、東横インが駅前にあったことを思い出しました。

2007年8月14日火曜日

西口知らずの池袋

池袋の記憶は小学生からはじまります。豊島園の流れるプールに地域子供会の遠足で行くために、池上線を五反田で山手線に乗り換え池袋へ。池袋から西武池袋線に乗り換えて到着です。車窓よりも、ポケットのなかのお金を落とさぬことばかり気にしていました。迷子になれません。

仕事で池袋のビックカメラに出かけました。店内視察です。見るのは1階店頭、陳列方法、動線、プライスカード(これに暗号を書くお店が多いですね)、清掃具合、接客態度などです。成長する店舗に共通することは店員たちの歩行速度です。素早さを感じさせるお店は強敵です。

サンシャインシティにあるナンジャタウンには、まだ父親の言うことを聞いていた娘たちと出かけました。ナンジャビザという園内のあちこちに隠されたスタンプをコンプリートするまで、どれだけ歩かされたことでしょう。室内遊戯施設として、ひとつの完成形だと考えています。

サンシャインシティではIT関連の展示会も開催されるのですが、駅の反対側の立教大学方面はあまり知りません。以前、ホテルメトロポリタンには部下の披露宴のために出かけました。駅から迷いながら歩きましたが、新宿とは、また違った危険な匂いを放っている繁華街でしたね。

2007年8月13日月曜日

記憶薄らぐ目白のイメージ

目白駅に訪れたのは何10年か前のことです。ロッキード事件が起きた頃のような記憶があります。学習院大生に誘われて構内を散策しました。有名なピラ校(分かるヒトには分かりますね)も見学させていただきました。学習院から皇族の方々を連想していたシンプルな青春でした。

学習院大学だけでなく、目白には川村学園、日本女子大学などもあります。総じてハイソなイメージがあるのですが、後にポンジョのおねーちゃんとデートしたとき、リアルを知ることはかくも哀しいことを知りました。お嬢様にもいろいろあるのは田中真紀子を見れば分かります。

目白には歴史的価値が高い(財)徳川黎明会があります。尾張徳川家の第19代当主の侯爵徳川義親が興した会で、徳川美術館(愛知県名古屋市)、徳川林政史研究所(目白)の施設があります。徳川本家ともいえますから徳川家を研究するならば、こちらを無視することはできません。

ポンジョねーちゃんとは学習院の横の坂道を下り、神田川近くの飲み屋に入りました。本来なら高田馬場に書くべきでしょうが、無名の居酒屋は議論が大好きな方々に溢れていました。そういえば昔の若者は政治や文学を主題に議論していたものです。現在は何が主題なのでしょう?

2007年8月12日日曜日

ラーメンとアトムがトッピングした学生街、高田馬場

高田馬場は早稲田大学の玄関的扱いをされることがあります。実際に同駅から徒歩で早稲田に向かう学生が多いのか、早稲田行きの都バスに乗る学生が多いのか調べていません。見た目は地味な印象を受ける駅ですが、JR東日本の乗降客数ではベスト10に入っているのは驚きです。

一応、学生街の高田馬場ですから古書店などを見かけますが、最近はラーメン激戦区としての高田馬場ですね。「えぞ菊本店」「さっぽろ純連 東京店」「渡なべ」「俺の空」などの味が記憶に残っています。選定に困るほどの密集地域は高田馬場二丁目交差点から早稲田寄りです。

JR山手線の発車メロディは「鉄腕アトム」の「そらをこえて ラララ~」です。2003年3月1日から採用されました。天才・手塚治虫の手塚プロダクションが高田馬場にあったことによります。立ったキャラクターを持つと強いですね。ヒトの記憶に残る限り、生き続けられるのです。

山手線の外側に早稲田通りを7分ほどあるけばシチズンプラザがあります。高校生の小生は、こちらでアイススケートに没頭していた時期がありました。まだ施設が新しかった頃で、貸しスケート靴の具合がよろしかったのです。マイシューズなんて想像できなかった時代の話です。

2007年8月10日金曜日

みなあたりたい新大久保

新大久保駅の大久保通り沿い、明治通りに向かえば、小生が講義を持つ専門学校があります。在日の方が多いこのエリアはヒトという動物は雑然のなかに活路を見出すものという空気が流れています。韓流グッズ販売店にセレブと思しき淑女を見出すときがあります。路地裏の韓国料理店のなかには24時間営業のお店もあります。

新宿から新大久保が近づくに連れて、やたらと目立つのがその手のホテルです。韓国料理店とその手のホテルが目立つ立地にある専門学校はいかがなものかと問うてはなりません。透明な清流を泳ぐ魚はクリエイターとして生きてはいけません。清濁を受容できる精神から美醜を比較し、自分にとっての「美」を表現するのです。

新大久保駅の池袋方面の階段を降り、改札口を出たところが大久保通りです。明治通りに向かうならココを右折しますが、今度は左折してみましょう。交番の隣りが皆中稲荷神社です。天文2年創建の同神社は鉄砲組の信仰を集めました。何せ「皆中」は「みなあたる」と読めます。現在は宝くじを持参して祈るヒトを見かけます。

専門学校で教鞭をとりはじめて5年が過ぎました。時が過ぎれば街も変わります。ミーハー韓流ブームは下火ですが、この街の食の韓流は続いています。また、最近はインドの攻勢が目立ちます。タイ、中華料理なども見られます。新大久保で食事をするなら、ランチを推奨します。千円以下の多国籍ランチがあちこちにあります。

2007年8月9日木曜日

新宿デビューは高校生のとき

新宿にはマイクロソフト、トレンドマイクロなど、現在でもお仕事をさせていただいている企業があります。両社ともJRで向かう場合には南口から向かいます。都営地下鉄でも便利です。最近は社内禁煙という規則が当然のようになっていますが、サザンタワー、マインズタワーの一階には愛煙家用の灰皿が用意されています。

かつて眠らない街として有名だったのが歌舞伎町です。高校生のときにコマ劇場近くの映画館に深夜映画を観に行ったことがあります。午前4時過ぎに歌舞伎町一番街を通ると、知らない男から「いい子がいるよ」声をかけられました。帰りの電車賃しか持たない高校生に、しつこく付きまとっても、時間の無駄だと思いました。

区役所通りから明治通り方向に入れば新宿ゴールデン街があります。閉店したスナックですが、ココに「ちろりん村」がありました。ゴールデン街では、同店を起点に「チャコ」「10CC」などで飲んでいました。妻と知り合ったのも街でもあります。決してキレイな場所ではありませんが、文化を交錯できる場所として貴重です。

新宿三丁目に「桂花」という熊本ラーメンのお店があります。同店のスープを飲んだときの衝撃は忘れられません。東京風のスープではありえない美味です。ファンになって通いはじめてから20年は経っているでしょう。ヒゲの店長も健在です。気になるのは出店攻勢です。店舗数が増えると、平凡な味に近づいていくものです。

信仰と思想を横目で見る街、代々木

代々木という場所は、いつ訪れても「不思議」を感じます。日本中の神社の総元締めである神社本庁があるかと思えば、思想こそ宗教と考えるであろう日本共産党の本部があります。そこらの大学生よりも勉強熱心な予備校生がいるかと思えば、怪しいファッションに身を包んだコンテンツ系の専門学校生もウロウロしています。

かつて小生も代々木ゼミナールの模擬試験を受けたことがありました。成績はともかく壁中に貼られた「日々是決戦」のようなスローガンに衝撃を受けました。小学生が真剣になって勉強している姿を目撃したとき、ははぁ、これくらいの年齢から鍛え上げられた「脳」の持ち主が有名国立大を突破するできると確信しました。

現在、代々木と新宿の距離は短くなっています。歩けば理解できます。タカシマヤタイムズスクエアならば、どちらの駅から歩いても同じような距離です。代々木で目立つ建物は超高層ビルではありません。てっぺんがアメリカチックにとんがったNTTドコモ代々木ビルです。内部には通信機器や制御装置で埋め尽くされています。

代々木にあったWeb関連会社や広告代理店に何度か訪れました。そのときに発見したのが代々木の路地裏の味です。本格的なエスニック料理を出すお店があちこちに、また、おしゃれなレストランもここそこに。あっ、そうそう代々木公園について触れておくべきですね。アレは原宿駅が最寄駅です。原宿公園に改名すべきです。


2007年8月8日水曜日

表参道ヒルズに悲哀を感じる原宿おやじ

原宿駅の竹下口を出て徒歩数分のところに渋谷区立中央図書館があります。一時期、この図書館に通う日々がありました。大分県から上京したヨーコという彼女と勉強していたのです。もっとも小生の目的が勉強だったのか、彼女にあったのでしょうか?丸い顔の彼女とのファーストキスは明治神宮の池の畔でした。竹下通りが狂乱を具現化した街になる前時代のことでした。

小生が生まれてはじめてピザを食べたのは明治通りと表参道の角の伊レストランでした。高校生のときです。案内してくれたのはユカという原宿に住んでいた中学生でした。彼女はいまどきの中学生と違い、マルクスや毛沢東の著書を読み、自分なりに社会の矛盾を糾弾しようとしていました。真ん中があるから左右があると指摘したら、非常に不快な思いをさせたようです。

サンボマスターが「フォークの神様」岡林信康に影響された話はあまりに有名です。当時を思い出すと、小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるの全盛期を思い出します。それ以前に、はっぴえんど、小室等などがいました。吉田拓郎が出てくれば「ペニーレインでバーボンを」ですよね。同店で明大の友人とお酒を飲んでいたことを思い出します。原宿は楽しい街でした。

当時の同潤会青山アパートは秘密に満ちていました。大正13年に建てられたソコに入り込むと、西洋のような中庭がありました。都市には枯れた迷路の趣を示す場所があります。素敵な風情はヒトの慣習の果てに醸成されるもので、小生は好ましく見るのです。が、デベロッパーの目には違う言葉が浮かぶようです。そう「再開発」。表参道ヒルズに悲哀を感じる者もいます。


2007年8月7日火曜日

渋谷もまだまだカキコが続きそう

渋谷ではずいぶん遊びました。遊ぶというと不良的な空気を感じるかも知れませんが、はたして小生はどうだったのでしょう?道玄坂を上がったところにあったヤマハではプラチナ製のフルートに憧れを感じました。ヒノテル、ナベサダのプレミア楽器から感激をいただきました。そんなヤマハの斜め前に「百軒店」がおいでと手を振っていました。

ヤマハでフルートの楽譜を購入してから百軒店にはじめて行きました。ラーメンの「喜楽」、カレーライスの「ムルギー」、ジャズ喫茶の「スウィング」などに入り浸っていました。スウィングの髪の長いウェイトレスに憧れたものです。店内に置かれた大学ノートに「I Love Swing and You!」と、シャイな文言をボールペンで書いたものです。

渋谷は魅力に満ちた街でした。映画を観る、女性を鑑賞する、混沌とした刺激を味わう、適切な場所がありました。高校生の自分は加藤和彦さんのファンクラブ誌の編集を任されました。原稿を書き終え、渋谷から歩き、青学大近くの路地を入ったところにあった小さな印刷所に会報誌の印刷を依頼をお願いしました。帰りは表参道から原宿に出ました。

東京タワー下の芝公園スタジオに最初に出かけたのも、加藤和彦FCの「クラブジョン」の絡みでした。吉田拓郎のデビュー曲をスタジオで聴き、渋谷に戻れば松山千春が「ヘッドパワー」でCDを客席まで売りに来ていた時代です。恵比寿に住んでいた明大生が一緒のときが多かったですね。百軒店の居酒屋で酒代の代わりに腕時計を置いてきた豪傑でした。

Morikiyo.J.Fox さんからコメントを頂戴しました。「初めて書き込みをさせていただきます。渋谷のヤマハは音楽創りをする僕にとって、至福の空間です。機材が豊富で、いつもお金がないことを悔しく思って店を出ます。」とか。小生も同様な思いを何度もしております。白金製のフルートなんて自動車の値段でした。「渋谷というと、僕がエンタテインメントを創って人を感動させたいと思う引き金となったゲームを思い出します。それは、チュンソフトの実写ゲーム『街』です。スクランブル交差点を行き来する人々の想いを交錯させたとても素晴らしいお話でした。ゲームの中の光景ですが、病床の父が絶縁した息子のために打ち上げた花火が渋谷の夜にきらめく光景は、10年経った今でも印象的です。」は納得です。このゲームは大人の鑑賞にたえられますね。「かまいたちの夜」もそうでしたが、ゲームと小説の混交という成果は大きいと思います。

高校時代、百軒店に迷いこみ色とりどりのネオンに肩身が狭い思いをしました。」には苦笑いしました。実は小生も最初のうち、同じような感覚を味わったのです。いまはキレイになった「喜楽」というラーメン屋が、まだボロっちい時代、ジャズ喫茶での疲れを同店の2階で癒してました。先日、食べに出かけたら、若い頃のは美味に感じたものを妙に辛く感じました。世代とともに「面白い」「美味い」「楽しい」のゲージは変化するのでしょうね。


恵比寿の記憶は立ち食いそば

恵比寿駅も記憶に残っている場所です。もっとも印象に残っているのは、駅から徒歩5分ほどのアパートに住んでいた友人との語らいです。青臭い議論をいていました。明大の学生だった彼とは、あちらこちらで飲みました。小生の六本木デビューも彼の存在があったからです。深夜の六本木のネオンは外国にいる雰囲気でした。

恵比寿駅近くの路地を入った場所の立ち食いそば屋も記憶に残っています。現在の恵比寿はラーメン激戦区ですが、当時の空腹を満たしてくれたのは、安価な立ち食いそばです。「月見きつねそば」が豪華な食べ物でした。当時は没個性的な「アトレ」は建っていません。駅前のロータリーにローカルな空気が流れていました。

「アトレ」は東京圏駅ビル開発が経営するJR系のステーションビルです。JRは駅ナカだけでなく駅ソトにも積極的に進出中です。民間会社となりましたから、どんな商業施設を作るのも自由ですが、進出した場所は没個性化します。また周辺の商店街に悪影響も及ぼします。国民全体の共有資産企業の民営化が国民を苦しめます。

恵比寿駅から中目黒駅まで、かつて散歩しました。最初のうちは、だらだらとした上り坂ですが、中目黒駅が近づくにつれて急勾配の下り坂になります。坂を下りきれば目黒川が流れています。恵比寿駅から山手線の外側を商店街沿いに歩いていくだけです。派手な恵比寿ガーデンプレイスと異なった下町感覚に溢れた場所です。


2007年8月6日月曜日

目黒も歩き回った場所

目黒駅は品川区、品川駅は港区と小学校のときの社会科で習いました。どうして、そうなったのかは憶えていません。目黒と蒲田を走るから目蒲線だと記憶していたら、いつの間にか目黒線と名称変更していたことを、山手線から目蒲線に乗り換えるときに構内の看板で知りました。

目黒駅にもいろいろな記憶が残っています。五反田からも歩いていける場所でしたし、「王様のアイディア」というお店に何度も通いました。奇妙なグッズに驚かされる喜びがありました。ステーションビル階上のテナントでした。最初の恋人とデートを楽しんだ場所でもあります。

目黒といえば「とんき」の存在も忘れてはなりません。城南地区のとんかつの名店です。権之助坂を下るすぐ左側の同店を初めて訪れたヒトは、コの字に並んだ見事な白木のカウンターに驚くと思います。何度か食べに行っていますが、慣れるに従い平凡な味のお店だと感じています。

権之助坂を下りきったところにある大鳥神社の縁日、少し五反田寄りの目黒不動尊の縁日は、五反田に住んでいたときの楽しみでした。子供の頃のお祭りでは、神輿を旗岡八幡神社まで担ぎ、肩が痛いのに縁日の屋台を見れば、嬉しい気分になりました。屋台は現在でも大好きです。

記憶が巡る場所、五反田

五反田駅には思い出がたくさんあります。西五反田に建っていた「リーラハイタウン」という賃貸マンションで数年間居住していました。目の前にどぶ川にも等しい目黒川が流れ、ある大雨の日、この川が氾濫しました。9階の部屋から下を眺めたら、目黒方向から走ってきた軽自動車が水の上にぷかり。マンションの一階は完全に水に浸かっていました。電機室が地下にありましたから完全停電です。食べ物を買いに行くにも、階段を使うことになりました。

駅前のパチンコ屋に入り浸って、連夜にわたって一儲け。両替所で現金にしたところを見られていたのでしょうね、カツアゲが後をつけてきました。暗い路地を歩いていたら、後ろから「ちょっと、兄さん」と声をかけられたのです。振り返るとヤの字のつく職業の方とは違う、いわゆるチンピラ兄さんでした。目つきが鋭いのですが、目線が定まりません。この手のヒトのほうが何をするかわからないものです。知人がやっていた蕎麦屋に逃げ込みました。

東急池上線は小生が生まれ育った街を通っていました。五反田駅はその始発駅です。三両編成で、車両の上側がオレンジ色、下側が茶色という、みかん箱色した旧車両が目に浮かびます。高校生のときに、ボーリングを五反田ボールで憶えました。はじめての記録は27点でした。当然、周囲から笑われました。悔しさをバネにするのが小生です。指から出血するまで通い、ここで225点を出しました。小生の最高記録です。近くの東洋製罐の工場でアルバイトもしました。

五反田駅近くには電波新聞社もあります。山手線の内側の坂を少し上った場所です。名前から業界新聞だと推察していましたが、まさか、最初の連載や出版を、ココから発刊することになるとは。思わぬ偶然でしたね。連載などで社員の方と話すようになると、新聞社にもいろいろあるということを学習しました。電波新聞社の反対側から坂道を登っていけば、五反田の高級住宅地が池田山。結婚したばかりの妻と何度か散歩しました。夜中に自転車で走って、大崎署の警察官の職務質問も受けました。多様な記憶に満ちた場所です。まだまだ書くことがある場所ですが、徐々に増やすことにしましょう。

2007年8月5日日曜日

都心ベイエリアの再開発は大崎でも

大崎駅は工場地帯の駅でした。ソニー、明電舎などの工場があり、山手線しか停まらない地味な場所が一変したのは、三井不動産がゲートシティ大崎を完成させてからです。大型オフィスビルは昼間人口を拡大させ、そんな場所には商業施設も集まります。街の拡大は続いています。

ヒトが増えれば鉄道も発達します。山手線と貨物列車だけだった場所は、現在では埼京線、りんかい線、湘南新宿ラインの利用が可能です。ゲートシティ大崎のある東口(山手線内側)よりも、今後、注目を浴びるのは西口(外側再開発)です。注目すべきは2007年10月25日ですね。

その日、明電舎の跡地に作られた複合施設「ThinkPark シンクパークTower」がグランドオープンします。JR大崎駅南改札口、新西口から専用ペデストリアンデッキで徒歩2分という立地です。ショップ、レストラン、オフィスサポートセンター、ホテル、フィットネスクラブなど。

新橋から大崎まで山手線の外側再開発で、危惧するのは、人口減少国家のなかで、こうした再開発はどうかです。東京一極化がますます進むだけでなく、ビルに囲まれた盆地都市のヒートアイランド対策を考えなければなりません。格差社会は入居者不在ビルの警備員も増やします。

JRグループの強さがわかる品川駅

品川駅で記憶に残っているのはホテルが数多い高輪口ばかりです。目前にホテル・パシフィックが見られますが、小生、同ホテルで最初のアルバイトを経験しました。室内清掃ですね。先輩のおばちゃんにピロー交換、ベッドメイク、アメニティ交換、トイレ清掃まで教わりました。

ヒトは繰り返すことで学習します。バイトも終盤になった頃、枕の角がカッコよく立ち、形のキマったベッドとそうでないものを区別でき、バスルームからトイレ掃除などを終えるのに一部屋3分以内で終了するようになっていました。JRのストで宴会場の床で寝たこともありました。

品川駅の構内は改装後、美しくなりました。エキュート品川という駅ナカ商業施設を取材したとき、某テナントのマネージャーに質問しました。マージンは?デパートのテナントよりフィーを獲得できるJR東日本という会社は倒産しない会社格付けをすれば、最有力だと感じました。

高輪口の反対側が港南口です。改装前は貨物や新幹線車庫などの地下道をずるりと抜ける場所でしたが、現在は違います。品川インターシティ、東海道新幹線の新駅ができてから、倉庫や工場の街の記憶が薄れています。昔、ソニーの仕事で工場街を歩いたそこはタワーマンション。

2007年8月4日土曜日

芝浦再開発が注目されそうな田町

田町駅には三田口と芝浦口があります。三田口を利用される人たちの前を走るのが、箱根駅伝の選手たちが疾走する第一京浜(国道1号)です。大体の人が横断歩道を渡ります。小生もソコで復路の様子を見たことがあります。その速さに驚かされました。地下鉄の出口付近で応援旗を配布している事実も知ることができました。

三田口の繁華街が慶応仲通り商店街です。居酒屋、ラーメン屋、ファーストフード店などが連なっています。噂では新宿歌舞伎町を追われた業者も、こちらで営業したとか。仲通りを道沿いに歩いて行くうちに慶応義塾大学の正門に到着します。以前なら手前に脂ギトギト系の「ラーメン二郎」の行列を見ることができましたが、現在の二郎の場所は正門の先になりました。

田町駅に直結しているといえるのが、森永プラザビル。ご存知、森永製菓の本社ビルです。こちらには日本電気も入居しています。日本電気の本社ビルも田町にありますが、JR田町駅からですと、案外、歩かされます。以前、Web制作の仕事で来訪したのはプラザビルのほうでした。警備員から「どちらに行かれるのですか?」と質問されたのは小生がラフな格好をしていたからでしょう。

田町駅には芝浦口という出口もあります。行かれると理解できますが、運河に囲まれた場所で、三田口と比較すると地味な印象を受けます。以前は、倉庫や工場などが目立ちましたが、最近になって目立つのは、高層マンションです。江東区の豊洲が注目されていますが、小生は数年後に芝浦が豊洲のようになりそうと考えています。芝浦アイランドがその先鞭を付けました。

2007年8月2日木曜日

浜松町はあちこちの玄関

山手線から「東京タワー」を眺めるなら、やはり浜松町でしょう。新橋方向から浜松町駅に到着する寸前のガードからの景色を楽しんでください。ところで、山手線外回り・京浜東北線南行ホームの南端に小便小僧の像があります。ボランティアの方が季節によって衣装を変えさせています。都心にあってのほのぼのとした光景です。

浜松町駅前に建つのが世界貿易センタービルです。このビルの5階を利用される人は数多いと思います。そう東京モノレールのホームがあるのです。JRからモノレールの中央改札口への一方通行の改札口がありますが、羽田空港に向かうとき、まずこちらを通るのではないかと思います。モノレール中央改札口には航空券の発券業務を行うMCATや定期券売り場もあります。

浜松町駅の東側には芝離宮庭園があります。また汐留シオサイトの南側の玄関もあります。浜松町のもうひとつの顔は、竹芝桟橋・日の出桟橋に見られる海への玄関です。地番は東京都なのに伊豆諸島とはこれいかに、と突っ込んではいけませんが、小生の場合は水上バスで東京ビッグサイトに向かうための水上バスに乗船さしています。

取材で東芝本社を訪れたときに北口の高架橋を渡りましたが、東芝のために架けられた通路ではないかと、渡りながら一流企業のパワーは凄いものとの印象を抱きました。江戸時代以前はこの一帯は、いわゆる芝の海岸です。芝浜ですね。その名残は、古川沿いに屋形船・釣り船を営む方々だと思います。屋形船は古川を下り浜崎橋インターの下を抜け東京湾に出ます。

2007年8月1日水曜日

サラリーマン広場がある「新橋」

以前、リクルートの雑誌で連載していたとき、新橋でかなり飲みました。「新橋」駅には日比谷口・銀座口・烏森口・汐留口の4か所の改札口があります。当時は銀座口ばかりを利用していたのですが、最近は烏森口がダントツです。この近くの会員制スナックの常連なんですね。ママの顔面認証がなければ入店できません。

現在の新橋駅は2代目なんですね。1914年に東京駅が完成して、汽笛が新橋から一声しなくなってしまいました。で、「烏森」駅を「新橋」駅と名称改称したのです。烏森の名は神社からお借りしたものでしょうか?元祖「新橋」駅は「汐留」駅となり、一部は残っています。貨物専用駅跡地がシ汐留再開発に活用されました。

ソフトバンクに勤める知人によれば、再開発地域の物価は高いようです。キレイな建物で働いても食べるものが極端に変わるわけではありません。庶民文化を残す烏森口の周辺は、そんなビジネスマンにとって安息の場です。昼時のニュー新橋ビル地下の様子は一見の価値があります。

西口広場には、C11形蒸気機関車があります。そう、テレビでおなじみの「SL広場」です。サラリーマン街頭インタビューのためにある広場です(冗談です)。隣接した場所に会員制競輪場外車券売場「ラピスタ新橋」があります。拉致被害者の会のH氏を目撃したと聞いたことがあります。虎ノ門方面に向かう道沿いに風俗店が数多く見かけられます。そういえば新橋のメイド喫茶一号店もこの通りにあります。

noppe さんからコメントを頂戴しました。お約束通り、ブログに付加させていただきます。「5月に行ったとき、噴水がなくなってました。酔っ払いのオヤジ達が水浴びしている夏の風物詩も消滅。なんとなく寂しいですね(笑)。」とのことですが、新宿のコマ劇場前の噴水も消失しています。水は管理(する人にとって)が面倒なのだと思います。でも、夜の「SL広場」前には、ヘベレケになったおとっつぁんたちがいるわいるわ。

有楽町で観てるでしょう

織田信長の弟の有楽斎が徳川家康から数寄屋橋御門周辺の土地を拝領しました。有楽町という名称の由来として有名です。ちなみに、江戸開府期までのこの一帯は日比谷入江という海岸でした。人は必要に応じて川の流れを変え、海さえも追い立ててきました。こんな歴史の前では銀座のネオンも霞みます。

1910年には山手線の「有楽町」駅が開業し、1933年に日劇、1934年に東京宝塚劇場がオープンしました。有楽町は劇場街となり、さらに毎日新聞、朝日新聞と読売新聞の各社屋も進出したのです。戦後は映画館街になりました。そごう東京店のキャンペーンソング「有楽町で逢いましょう」が有楽町から全国区になりました。

有楽町マリオンは1984年にオープン。また、2000年にビックカメラがオープンしました。有楽町駅前再開発では2007年に丸井の入店予定。老舗デパートの三越、松屋、松坂屋がある銀座と若者向けの丸井では顧客層が異なりますが、人の流れがどのように変わるのか、小生も興味深く見つめています。

小生が有楽町を訪れる理由の大半は映画を観るためです。日比谷スカラ座、有楽座などがお気に入りの映画館です。映画のチケットは有楽町駅前の金券屋で購入します。映画はDVDでも観られますが、映画館に流れる雰囲気が勝りますね。上映前のCMと予告が長すぎると思っていますが。

2007年7月29日日曜日

内外違う東京駅の表情

以前、八重洲地下街にハマったことがあります。江戸時代に漂着したオランダ人にヤン=ヨーステンがいます。徳川家康の外交顧問となり、住んでいた屋敷がこのあたりにあったから、この地名になりました。東京駅と直結しているところから、和洋中の飲食店に居酒屋、有名ブランドの小売店から酒屋まで、さらにはイベントが開催されたり、リフレクソロジーがあったり、駐車場まであります。界隈で働く人たちと観光客が混在した繁華街となりました。

八重洲地下街は丸善、高島屋など、いわゆる日本橋に向かうにも便利な通路の役目も果たしています。世界で愛されているポケモンの直営店は、2007年7月から浜松町に移転しましたが、以前はそちらに向かうにも便利な通路でした。八重洲口と日本橋との微妙な距離の間に、古くから続いている飲食店が路地裏に見つけることができました。夜の路地裏飲み屋に長年通う年長者は、「駅との距離が絶妙にいいんだ」と呂律怪しく話してました。

八重洲口と反対側に位置する丸の内口。三菱グループの中核企業に三菱地所があります。同社は丸の内に30棟以上のビルを所有しています。丸の内の再開発が注目されていますが、リーダー的存在が三菱地所です。同社の発表では1998年から2018年までの20年間に、総額9,500億円(!)の投資を考えているそうです。なるほど、これだけのお金が使わるから、丸ビル、オアゾ、東京ビル、新丸ビルを次々と建てることができたわけですね。

丸の内側には「はとバス」の発着所もあります。以前、知り合いと屋形船に乗るはとバスツアーに乗車したことがあります。出発時間まで余裕があったので、皇居界隈も散歩しました。そう、丸の内は皇居を訪れる観光客が利用する出口でもあります。最近、外資系企業が丸の内一帯のビルに入居しているのか、いろいろな国の人にも出会います。どなたもセレブっぽい印象を与えてくれます。たぶん、年収平均では日本一だと推察できそうですね。

以前、丸ビルで人と待ち合わせました。丸ビル奥にイベントスペースがあり、慶応大湘南藤沢キャンパス主催イベントが開催されていました。「あれ、昨年まで六本木で開催してたよね」「はい、でも、今年からはこちらになりました」「どうして?」「三菱地所の役員が先輩でして・・・」という会話を耳にしました。事実関係は調べていませんが、たぶん、その通りなのでしょう。人工的な街並みが、こんな繋がりから、人間臭さが付加されていくのだと思います。

2007年7月28日土曜日

庶民のオフィス街?神田あちこち

山手線内回りで秋葉原からひとつ目の駅が「神田」です。アキバ同様千代田区の場末でして、地下鉄銀座線にも「神田」駅はあります。駅周辺で目立つのは、築何10年と思えるような中小の雑居ビルですね。一応、オフィス街だとジモティが語っていましたが、それはアキバと比較した場合を意味します。もうひとつのお隣の駅である、「東京」駅と比較すれば、ぷっ、下町の雰囲気がぷんぷんします。ガード下を散策してください。戦後が残っています。

駅周辺の雑居ビルで最初に目に入るのは「金券ショップ」です。以前、金券ショップの経営者から聞きましたが、「神田」駅周辺に同業者が集中した理由は「官庁から丁度よい距離だからなんだよ」とのことでした。新宿に移転する前の都庁の人がどのようにお店を活用していたのかでしょうか?個人名まで書けませんが、役所内には切手や印紙といった有価証券がたくさんあります。有価証券をキャッシュに交換する役人さんが何人もいたそうです。「どう考えても、不正な処理だと思うけど、モノは本物だからね」と商人の顔を見せました。

いまは消費者金融という言葉を使いますが、昔しふうに言えばサラ金が目立つのも「神田」駅の特徴です。貸金業者は最高裁判決以後のグレーゾーン金利撤廃を受け、美味しい企業環境ではなくなりつつあります。世の中には返済目的に借金を重ねる多重債務者がいます。09年に出資法(上限29・2%)と利用制限法(同20%)の間のグレーゾーン金利を完全撤廃します。大手消費者金融は、売上高に相当する営業収益ベースで30%のマイナス要因になると算定しています。「金貸しはどんな法律下でも金を貸す」と哂う人もいるのです。

「神田駅なら居酒屋でしょ」と話す人がいます。神田駅は街の区画を無視して、斜めに線路が走っています。駅周辺に三角地帯が多く、奇妙な形状の建物も見られます。煉瓦壁に囲まれ昼なお薄暗いガード下には、夕暮れともなるとオヤジたちが集中します。粗末なテーブルを囲む人々の背中には時代の哀しみが見られます。立ち呑み酒場から煙がもくもく。焼鳥屋、ロンドンパブ風バー、有名居酒屋チェーン、小料理屋風などなど、魅惑的な店が並んでいます。自分の好みでお店を選びましょう。どれだけ飲んでも値段の知れたものです。

駅西口には西口商店街があります。こちらは都心としては珍しく物価が安く、近くにある神田外語学院の学生たちから喜ばれています。中通には一軒家も見られ、いわゆる町中の商店街だったことがわかります。そう、古くは下町の住宅地だったのです。立ち食いそば店が集中していることも興味深いところです。昼休みの時間、近所のサラリーマンが財布と相談しながらお店を選定しています。本日はコンビニおにぎりだけというお父さんもいました。

2007年7月27日金曜日

秋葉原はいまでも変わる街

日本で有名な観光地といったらどこをあげますか?小生は以前、機械翻訳のベンチャーで働いていたことがあるのですが、同僚に外国人もいました。コイヤーくんという彼の家族が日本旅行に来日したとき、彼から東京の面白い場所を教えて欲しいと頼まれました。そこで、小生が教えたのは3Aです。外資系企業には外国人が多く働いていますが、この3Aを押さえておいてください。日本に来た人は、京都や奈良よりもエンジョイできること請合いです。で、3Aとは「浅草」「アメ横」「秋葉原」です。

家電店、パソコン店などが集積している場所として秋葉原は有名になりましたが、最近の秋葉原ではそうした見方をすべき場所ではなくなっています。アニメや同人誌、フィギュアやガレキ、鉄道模型や無線関係、セキュリティグッズや免税品など、個々の要望に応じたお店が散在する街に変貌したのです。ゲームやアニメの登場人物からスタートしたサービス業も生まれてました。メイドカフェはあまりに有名ですが、小生はコンセプトカフェと表現します。メイドパチンコにメイドリフレクソロジーまであります。

人は十人十色です。いかにも紳士然とされた方々、上記の各店をオタクショップだとかオタク系の店ののような表現をしますが、本人が好きでやっていて他人に迷惑をかけないようなら、どんどんやるべきだと思っています。いわゆるオタク的な人たちに共通するのは「コダワリ」の強さですし、その「コダワリ」は文化を進化させています。アキバではアイドルオタクに向けたイベントも開催されますが、他方、高性能な自作二足歩行自作ロボットに熱くなっている人もいます。パソコンという便利な機械は同人誌や同人ソフトにとって必需品となりました。CGに強い「こだわり」のある人の自作PCには驚かされます。

秋葉原を「趣都の街」「オタクの聖地」などと呼ぶ人います。マスメディアは、ちょうどテレビにあってカメラの前だけが真実であるのと同じように、系統化することが大好きです。映画の「電車男」は、アキバ=オタクを見事に印象付けてくれました。ところが、実際のアキバは、各店が日銭を稼ぐ修羅場のような面があります。他店との差別化をはかるために、「これ、違法じゃないの?」と聞きたくなるような商品が売られています。何かと話題の中国ですが、彼らは違法コピーしたアドビやマイクロソフトのアプリを堂々と販売中。CATVを無料で見られる検波チューナー、規格外のレーザーポインターなどなど。

アキバといえば夜が早い街で有名でしたが、最近はそうでもありません。ドン・キホーテができたあたりから、ネットカフェもあちこちに見かけられるようになりました。23時以降に入店すれば二千円以内で一晩過ごせるナイトパックがはじまります。夏コミ、冬コミの頃になると、そうしたお店は大繁盛しています。駅前再開発で秋葉原クロスフィールド、ヨドバシカメラマルチメディアAKIBAなどができました。資本力はる新参者は、中規模クラスのアキバの老舗の経営を苦しくさせています。いまも変わる街がアキバなのです。

ブログ開始のご挨拶

東京が日本の首都になったのは明治二年です。もっとも東京になる前の江戸は、当時としては世界最大級の町でしたから、17世紀から事実上の首都になっていた場所だといえるでしょう。小生は東京都墨田区寺島町という場所で生まれました。寺島町とは旧名で現在は墨田区東向島となっています。もっとも生まれてまもなく品川区中延という場所に引越しました。小生の東京の記憶はここからはじまっています。自宅の隣りはラーメン家さんでした。

現在は江東区に住んでおりますが、時間を見つけては東京のココ・ソコ・アソコに出かけています。どうして出かけてしまうのでしょうか?そう、東京には面白いところがたくさんあるからです。秋葉原の量販店でマネージャーをしていたとき、戦前の風景が残っている須田町界隈、神田青果市場、電気街の路地裏、御徒町周辺などを散策しました。どこの街でもそうですが、表があれば裏があります。知らない路地には数多くの発見がありました。

そんなこんなを書き綴りたいと思いまして、このブログをはじめることにしました。皆さんも、この近くには、こんな場所が、お店が、人がいるという情報を寄せていただきたいと思います。最初は山手線内回りから進んでいきます。線路は続くよどこまでも・・・ではないですが、このブログ、どこまで続くことやら。どうぞ、お楽しみください。