2010年9月30日木曜日

静かなアキバに浸りたいならば

「古美術茶廊 伊万里」は古美術に囲まれながら落ち着いた時間を過ごす場所です。ココも小生が現役店員のときからありました。ザ・コン跡地の向かいの渋いお店です。一見入りにくそうなお店ですが、ソコは勇気を出して入店してください。店内は骨董趣味のヒトにはたまらない世界が壁一面に広がっています。見るヒトが見れば、古伊万里と有田焼の名品だと分かるのでしょうが、小生の鑑識眼には何かの入れ物にしか見えません。陶器、磁器、木彫などの骨董品は、テレビの鑑定団ではないですが、相当に値が張るのでしょう。けれど、香炉・蕎麦猪口・大皿をじぃ~っと見ても、わはは、駄目ですね。感激がやってこないのですから。


 ただ、そうした品々が昭和30年代風喫茶店に似合っていることは理解できます。扇子に書かれたお品書きを見て、多分、驚くのが価格です。浅草に有名甘味店Uがありますが、ココの白玉あんみつは、あそこの数割も安いのです。珈琲(ココは漢字の方がお似合いです)も同様で360円。注文すれば、作りおきしたソレが伊万里焼の茶碗(コーヒーカップのことですよ)に注がれて出てきます。高いじゃんと文句を言うヒトはマック、タリーズ、ドトールあたりと比較してだと思いますが、サービス業はロケーション代も費用のうちです。それと、現在は開放しているかどうか確認していませんが、以前は地下で飲むこともできました。多分、アキバで最も“静か”を味わえる場所だと思います。


 小生と違って鑑識眼をお持ちの老女から聴いたのですが、「あそこのレジのわきにもある大皿は、大変価値のあるものよ」だそうです。「値段は?」と無粋な質問はしませんでしたが、きっと大変な価値程度の価格なのでしょう(笑)。一階にはカウンターが6席。こげ茶色の木目ある4人がけテーブル机が3つあります。店内奥に大きめのテーブル机もあります。その横に囲炉裏があり、寒い季節には、実際に火を入れています。地下へ続く階段は…実際に「古美術茶廊 伊万里」に入って探してみてください。ちなみにお酒類は一切扱っていません。 


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2010年9月26日日曜日

料理屋も買いに来るおでん種

画像をクリックして拡大してください。ビルの
谷間にある老舗のシャッターが痛々しいです。
「構雄造商店」は末広町の交差点の宝くじ売場と若松通商に挟まれた場所にあります。小生がこの店を知ったのは、アキバの現役店員時代の大ベテラン常務が教えてくれたからです。「おでんが好きなら、末広町にあるカマエってお店でネタを買って、家で土鍋で煮るといいよ」「はあ、カマエですか…」「ははあ、変な名前だと思ってるんだろ。コレがなあ、ちゃんとした苗字なんだぞ。正式名称は構雄造商店っていうんだ」という具合です。こんな話も聞きました。「ネタがいいから、神田や上野の割烹が、ソコから仕入れてるんだよ」「本当ですか」「バカヤロ、一回喰ってから文句を言え!」。


この店も老舗といって良いでしょう。創業、大正2年で、構雄造氏とは創業者のお名前です。二代目が構常雄氏、現在の三代目が構壽雄氏です。中央通りで画像のようにビルの谷間にあるお店ですが、実績もなかなかのモノです。手造り「おでん種」「半ぺん」専門で、この「半ぺん」は、2001年11月に全国蒲鉾品評会農林水産大臣賞を受賞しています。小生が推奨するのは、たしか1050円だったと記憶しているのですが、「つみ入」「こんぶ」「中型半ぺん」「玉子巻」「ちくわぶ」などが袋に入ったミックスです。料理屋が買いにくるだけあって素材の味、歯ごたえが、そこらコンビニおでんと違います。職人が作ったおでん種を一度味わってください。


ちなみに三代目・構壽雄氏は神田松富町生れの慶應・経済学部出身です。以前、「日経ベストPC」という雑誌で取材したことがあるのですが、最初、広告代理店でサラリーマンをして、その後に三代目を継いだそうです。審判免許三級を取得しているサッカー大好きオジさんでもあります。現在もオーバー40のチームではFWを続けているのでしょうか。画像は開店前を写していますが、狙いはビルの谷間に存在する、シャッターに落書きされた老舗を強調したかったからです。ダレがやったか知らないけれど、シャッターとはいえ、店の顔だぞ! 消しにいけよ、やった奴。この店はなぁ、関東大震災で焼かれ、空襲で焼かれても立ち上がってきたんだぞ!


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2010年9月21日火曜日

高潔を貫くオノデン坊や



全国各地に有名商店街がありますが、そのなかで最大級なのはどこにあるでしょうか? やはり、アキバです。アキバのメジャーリーグショップが加盟している任意団体に「秋葉原電気街振興会」があります。アキバで主に電気製品の販売を業務とする各店の加盟が原則にありましたが、時代の流れで、「AOKI 秋葉原店」「秋葉原ワシントンホテル」といった他業態の企業も加盟するようになりました。同団体の目的はアキバに発展に他なりません。1979年9月に以前のラオックスの谷口会長が主導して創設されました。2008年4月現在、総会員数(法人数)は48社(全150店舗)が加盟しています。


「秋葉原電気街振興会」の現在の会長はオノデンの小野一志氏です。オノデンは、1951年6月30日に小野仁助氏が設立しました。朝鮮戦争特需や高度経済成長下、アキバ各店は他店舗展開に転じ、ラオックス、ヤマギワ、石丸電器、ロケット、サトームセンのように他店舗展開を始めます。ところが、小野仁助氏の経営方針は異彩を放っていました。「親切な電器屋」をモットーに、目の届く範囲での経営を目指したのです。また、主要販売商品も家電品にフォーカスし続けました。他店がPCに肩入れしすぎて、ブームが去った途端に業績低迷に陥ったことと相反する立場を貫きました。


アキバは売れる商品に敏感に反応しますが、オノデンは、2000年代以降のアニメ、フィギュア、同人誌などの“萌えブーム”が起きても、コレにも手を出していません。ラオックスが“アソビットシティ”の展開をはじめたとき、オノデンで働くヒトに問いかけたら、「アレは電器じゃないから、やりませんよ」と答えられたことを記憶しています。オノデンにとって、アキバは“一貫して電気街”なのです。そういえば、オノデンのCMソングも、「電器いろいろ秋葉原 オノデン」でしたね。ココまでくると、オノデン坊やに高潔な何かを感じてしまいませんか?

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2010年9月15日水曜日

季節料理 赤津加

 ヒトはJR「秋葉原」駅を電気街口からどこに向かうのでしょうか? 夕刻に電気街の中心地に向かなら、御茶ノ水方向にガード沿いを歩き、ガード下の横断歩道を渡り、東京ラジオデパートあたりを覗いて、浜田電機の角を右折するかも知れません。このあたりも小生が現役だった時代と相当変わりました。浜田電機の前は吉葉無線…ではなく現在はパチンコ店。斜め前はケンタッキーフライドチキン。ソフマップゲーム館はファーストポイントに。時の流れにため息を漏らしそうですが、数10年間アキバと接してきたヒトは、路地の横にニコリとするでしょう。アキバの名居酒屋「赤津加」が健在なのです。
 
 小生が現役店員時代から一貫している居酒屋の「赤津加」は、一見、日本旅館と見間違えそうな建物です。実際、店内に入ろうとすれば、お約束のように黒い玉石が浮き出た床を歩きます。店内の柱は自然に曲がった原木、その形ちを楽しむのが粋です。カウンターの奥には、商売繁盛を祈念する大きな熊手が目を引きます。よく見れば、1000円札があちこちに刺さっています。暖簾をくぐって店内に入ってしまえば、騒然としたアキバから和のアキバに身を任すことができます。「高くないよ、適当に飲んで食って酔って5千円でお釣りがくるもん」と、業界紙の記者を案内したことを思い出します。


「赤津加の名物は鳥もつ煮込みなんだ」と話して、それを2つ。平皿に盛られたソレを一口食べた記者は、思わず頬を緩めました。酒の肴は刺身から串かつまで、居酒屋の本筋通りです。電気街と縁のある中高年が、菊正宗(数種類置いています)をグビグビさせながら、鮪ぶつと冷奴を肴にしていました。通常、こうしたお店は常連さん優先のようなところがありますが、ココはどなたもお客様です。お酒は苦手というヒトはお昼の「赤津加」を利用してみてください。750円から千円程度で和定食を食べることができます。「きょうの日替わりは何かナ」と昼の常連たちが路地を曲がって行きました。

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2010年9月12日日曜日

創業明治5年「いし橋」

 横浜港は1859年に開港されました。居留地には大勢の外国人が住み、肉食文化が日本に伝わりはじめます。1864年、江戸幕府は居留外国人の要望を受け入れ、海岸通りに国内最初の屠場開設を認めました。1867年(慶応3年)、その横浜から中川屋嘉兵衛が、現在の芝白金に都内最初の屠場を開設しました。横浜の「太田なわのれん」の味噌煮込み風牛鍋の評判は東京にも響いてきました。そこに屠場開設です。ニーズがあると分かれば、スピード勝負となるのは、現在でも同様です。浅草や人形町などで牛鍋屋が次々と誕生します。その様子を知りたいヒトは仮名垣魯文の『安愚楽鍋』をお読みください。
 
 アキバ案内をしないで食肉史を記述するのか? いえいえそんなことはありません。小生のアキバの底流記事を楽しみにされている読者が何人いるかは知りませんが、実体感してきた街を外すものですか。で、浅草に超がつくほど有名な「今半」がありますが、ココの創業は明治28年です。ところがですねぇ、アキバには創業明治5年という牛鍋・すき焼き屋があるのです。えっ、ホントかよと疑義を発してはなりません。アキバから中央通りを末広町交差点まで歩いてください。交差点を左折、蔵前橋通り沿い左側を歩くうちに、妻恋坂交差点手前に肉屋を発見します。この肉屋の2階です!
 
 店名は「いし橋」。小生の現役店員時代はバブル崩壊がまだ本格化していない頃とも重なっています。ココを奢ってくれたのは、某ソフト会社の社長です。ガラリと扉を開けて、「○○で」と社長が姓を告げれば、お二階へどうぞ。スゴイですよ、店内には、昭和どころか明治のDNAが残存していると保証します。床から柱まで黒光りして、使い込めば日本建築とはかくなる異彩を放つのだと理解できます。店内の和室に入れば、部屋付きの仲居さんが、和服姿で給仕を始めます。小生も血気盛んな年齢でしたので、「霜降り」コースよ、さあ、おいで。味ですか? 2010年ミシュラン東京版☆1つ。当時の雰囲気を、現在でも残しているでしょう。

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2010年9月10日金曜日

ラーメン松楽

改装前のシューマイが食べたい
「ラーメン松楽」は、昭和8年創業というアキバでもっとも歴史あるラーメン店なのですが、「中央通りにあるよ」と教えても、「えっ、あったっけ?」と首をかしげるヒトが結構多いお店です。小生のアキバ現役時代は、まだ引き戸のお店で、昭和の匂いをぷんぷんさせていました。ガラリと開くと、おばちゃんが渋い声で、「いらっしゃい」と水を持ってきました。東芝のセールスさんのなかに、ココのラーメンに惚れ込んでいるヒトがいて、何度かご馳走になりました。現在は三代目が経営している老舗です。
 
 改装後の現在のお店にたまに行きますが、以前と違うのは店内に流れてくる音ですね。そう、ソフマップのマントラが流れ込んでくるんです。改装後、以前の名物だった大きなシューマイがなくなり、ラーメンとつけ麺のお店になりました。券売機も改装後に設置されました。小生は松楽ではワンタンメンを注文します。ワンタンは餡がたくさん入っています。醤油・鶏ガラでとった甘めのスープはストレート麺と絡み、フツーのチャーシューに刻み葱。昭和の東京ラーメンを彷彿させる味がします。


 松楽の初代店主は横浜で屋台を引いていた経験があり、スープはその頃に仕入れたノウハウ味なのでしょうと言いたいところですが、残念ながら改装後に味が変わってしまいました。以前はチラリと漢方薬っぽい香りがして、ソレがクセになりました。麺も現在のようなストレート麺ではなく、少し平たい黄色見がかった麺で、スープとの絡みが抜群でした。現在はクセをなくした素直な昭和ラーメンになったのです。これはこれで好きというヒトがいるでしょうが、アキバで働いている以前の味を知る店員からは、「松楽かぁ、前の味が懐かしいなぁ」との声を聞きます。

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2010年9月5日日曜日

ツクモからProject Whiteへ

 ツクモこと九十九電機は、1947年3月11日、末広町で、他のアキバの電器店と同様、ラジオ部品店として創業しました。その後は日本経済の成長とともに業容を拡大させることに成功しています。ツクモがその名を有名にしたのは、1977年にアップルのPCを販売したことでしょう。またオリジナルのメモリー販売やソフト販売にも手を出しました。以後、8ビッドPCからパソコン販売を手がけ、PC発売に女性スタッフ・マイコンガールを雇用するといったユニークな手法も注目されました。女性だけのパソコンショップ『ツクモ7号店』の井上チーフ(お元気ですか?)はテレビ番組で紹介されたりしたものです。
 
 ツクモは有名ブランドPCからマニア向けの周辺機器まで販売し、アキバだけでなく、大須、札幌などにも出店攻勢をかけました。しかし、PCが成熟期を迎えると、PC販売に売上を依存していたショップほど、その経営は苦しくなりました。PCは専門性が高く、商品説明が難解だからと、資本力がありながら手を出さなかった郊外店やカメラ量販店も、DOS/Vマシンからの仕様の統一と値ごろ感の高さを受けて参入開始。上記以外の場所にもPCショップを出店していたツクモの経営状態は、どんどん悪くなっていきます。窮余の策として、2002年から2007年までは石丸電気と業務提携しましたが、石丸はエディオンに、九十九はヤマダにと別々の道を歩みはじめました。
 
 2008年10月30日、ツクモはとうとう民事再生手続開始の申し立てを行いました。この年のシステム販売店協会の会合が1月にあり、ツクモ経営が行き詰っていることを知っていた小生は、出席していた重鎮にこんなことを質しました。「今年はスクラップビルドじゃなくて、スクラップアンドスクラップを急がないとね」。重鎮は苦笑いしながら、その場から去って行きました。民事再生は事実上の倒産を意味します。負債総額が約110億円であった理由は、バブル期における不動産取得と業務拡大のツケが回ってきたことによります。11月21日には、商品在庫を担保にNECリースから融資を受けたのに、それを販売したとして、担保権を実行され商品を借金のカタに引き上げられる事態にもなりました。
 
 こうなっては見も蓋もありません。経営者の能力を疑うコメントがアキバ中から聴こえてきました。そんなツクモに食指を伸ばした企業は数社ありました。2009年1月6日、ツクモはヤマダ電機への事業譲渡を決定する契約を締結します。同年3月10日、ヤマダ電機は新設した子会社Project Whiteにツクモの一切を事業譲渡させました。登記簿によれば、6月9日付で法人は解散しました。ココにツクモのDNAは途絶えたのです。ちなみに、すでにアキバに出店していたヤマダがあるのに、わざわざProject Whiteという企業を設立した理由は? コレについては、まだ継続中のエポックがあるのですが、怖いので書きません。

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2010年9月2日木曜日

アキバを救う東方作品

 アキバと共に生きてきた大学といえば、真っ先に浮かぶのが脇工学部長が講義されている東京電機大学です。小生が勤務していた現在のドン・キホーテ、かつてのミナミ無線電機にも、東京電機大学の学生がアルバイトに来ていました。その電機大の非公認サークル「AmusementMakers」から「ZUN Soft」というブランドで、1996年からPC-9800シリーズ用のゲームが発表されました。発表時期はPC-9800シリーズの衰退期で、これらの作品は一部のマニアにしか知られませんでした。
 
 東方マニアたちは、その5作品を「旧作」と呼んでいます。1996年の「東方靈異伝 ~ Highly Responsive to Prayers」「東方封魔録 ~ the Story of Eastern Wonderland」「東方夢時空 ~ Phantasmagoria of Dim.Dream」「東方幻想郷 ~ Lotus Land Story」「東方怪綺談 ~ Mystic Square」の5作品で、東方Projectの開発は一旦終了しました。現在では、まさに“お宝”です。以後、活動休止すること4年間。サークル名を「上海アリス幻樂団」に改称して、Windows版での開発が再開されました。クリエイターは自分の好き勝手な開発に勤しみたくなるものです。
 
 東方の特徴は、アクションゲームの王道である、弾幕モノへのコダワリにあります。当初は弾幕シューティング系が続きますが、そこに弾幕格闘アクションも絡んできました。弾幕シューティングの最新作は「妖精大戦争 ~ 東方三月精」が、今年の夏コミで発表されました。漫画『東方三月精 ~ Strange and Bright Nature Deity』2巻に書き下ろし掲載の「妖精大戦争」をオープニングストーリーとするゲームです。ゲームキャラの作画は比良坂真琴さんです。弾幕格闘アクションは「東方非想天則 ~ 超弩級ギニョルの謎を追え」が2009年8月の夏コミで発表されました。
 
 コミケで数多くの支持を得た作品は商業化に結びつきやすいのですが、東方Projectを題材にした小説や漫画があり、東方Projectのファンブックも販売されています。ところが、弾幕系ゲーム作品は商業化していません。欲しいならコミケで買うか、アキバで探せとなっています。それほどアキバ各店で東方モノを取り扱うショップが増えていますし、売れてもいます。「上海アリス幻樂団」は電機大卒のZUN(ずん)一人で運営される個人サークルですが。ZUNこと太田順也さんは、1995年に東京電機大学の非公認サークルAmusementMakersで、1998年12月まで個人制作のブランド名で弾幕系シューティングゲーム「東方Project」旧作を開発していました。東方の“神”は復活したのです。

2010年9月1日水曜日

部品店から原点に回帰

 アキバのルーツである総武線ガード下をご案内しましたが、彼らはどうしてラジオに注目したのでしょうか? 敗戦後の神田の露天商になったヒトたちに、軍隊での通信兵が多かったと教えてくれたのは、ライオン電機(駅前のトキワ無線の隣りにありました)のS常務でした。「ラジオはね、当時、今でいうハイテク商品だったんだよ」。まだ、テレビが発明されていない時代ですが、世間で起きていることをヒトは知りたかったのです。電源を必要としない鉱石ラジオの作成キットは、アキバで入手できます。
 
 戦後のラジオ部品は旧日本軍や占領軍(GHQ)が放出した部品から始まりました。GHQ本部は九段にあり、そのそばで営業というわけにはいきませんから、ほどよく距離のある神田界隈に露天商たちが集中したのです。真空管、半導体と部品は変化し、朝鮮戦争特需では家電品が爆発的に売れるようになりました。アキバ各店は、時代に合わせた売れるモノを取り扱いはじめます。現在のハイテク商品であるiPadやiPhone 4も、分解すれば、台湾や韓国で製造された部品の集合体なんですね。
 
 画像の「秋月電子」と「千石電商」は、部品一筋でブレない経営をしてきました。商品は完成品・半製品・部品と分けることができますが、現在のアキバでは、完成品はヨドバシアキバ、ヤマダ、石丸、ソフマップなどが販売(一部、半製品や部品もありますが)する一方、部品専門店が増加傾向にあることが見逃せません。さきほどのS常務は、「どんな商品も部品のカタマリだ」と話していましたが、アキバの原点に回帰しようとしているショップが活況を呈していることは、非常に頼もしいことです。
 
 ちなみに、小生は秋月電子で電子工作キットを何度か購入しています。ココのキットを製作するには、半田ごてが必須です。まだ瞳から星がキラキラしていた純粋無垢な少年は、夜がふけるのも忘れて、基盤に部品を取り付けていました。ある日、突然、激痛が走りました。はい、半田を使えば、一度は経験するのが火傷です。ちなみに半田ごてひとつをとっても、ICの普及から専用のモノが売られるようになったり、有害物質を含まない半田が生まれたりと、さまざまな治具を進化させました。

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